昭和47年5月1日 朝の御理解
中村良一
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
世に、三宝様踏むな、三宝様を、ここでは穀物の意と解釈が、その下にしてございますですね。穀物というのは、やはり、命の根とでも申しましょうかね。命を保たせて頂くと言う。言うなら、生きていく上に、一番大切なもの。その、一番大切なものを踏むという事は、軽くみたり、ね。お粗末にしたりという事は、もう、踏むことになるだろうと思いますよね。ですから、一番最後の所に、油断をすな、慢心が出るとおかげをとりはずすぞと。慢心が出ると、おかげを取り外すぞというところが、なかなか、自分は、慢心しとらんようであると思うておりますけれども、どこにか、慢心の影が出来てくる。いわゆる、自分で自分のことが、なかなか分からないと。ね。
私はその、どういう様な、生き方というか、あり方というか。神信心をさせて頂いて、神信心させて頂いておるから、特別の、また、おかげを受ける。そのおかげを、とりはずさんで済むようなおかげを頂くと。そういうその、大体の、まぁ、心掛けとでも申しましょうか。私は、今日は、ここんところを、どういう風に頂いたら良かろうかと思わせて頂いたんですけれども。第四十五節という事、今日は、御理解、第四十五節を頂いておるわけなんですね。四十五節は、しじゅう五節と言うわけですはね。しじゅう五節ということ。という事は、どういう事かというと、私は、その事からヒントを得させて頂いたんですけれども。
教祖の神様の、お言葉の中に、今中というお言葉があります。いつも今中という事。という気でおれとこう仰います。今中というのは、只今の今ですね。中は、中心の中です。今中。ね。どれほど、おかげを頂いても、おかげを頂いても、今中という気でおるという事。どんなに身代が出来ても、先生と言われるようになっても、ここでは、人間は、身代が出来たり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れると言う。頭を下げると言うことは、頭をぺこぺこ下げておるというう事じゃないと思うんですよね。いうなら、心のことなんです。ね。
三代金光様が、久留米の石橋先生のことを、「つんともせず」と仰っておられますね。つんつんしてからと言うでしょうが。例えば、威張ったり、腹を立てたりとした、つんともせずとこう仰る、ね。やはり、心が、そのようにね。つんつんすると言うのは、やはり、高慢ですはね。ね。いわゆる、慢心の始まり。そこで、私共がその、慢心の、これは仕様がないと言うか、いつも、願いに願うておる。いつも、自分の頂いておるおかげが、今中という心。しじゅう五節というのは、私は、ちょうど半分ということだと。まぁ、今日、私は、そんな風に、四十五節を頂いたんですね。始終、五節の心でおればいいんだ。これはね。しじゅう五節。ね。
ほら、先生のお宅は、立派な御造営が出来てと、こう言われる。なるほど立派です。信心も出来んのに、おかげ受けております。けれども、ほんなら、願いというものは、私は、ほんなら、こんな事じゃないです。まぁだ、神様のおかげを下さっておる、おかげの序の口だと思っておる。まぁだ、ずーっと上まで、あーた、久大線のにきまでは、例えば、家を広げていけば、広げてもいけるのです。私一代で、こう言うものが出来た、ね。そら、見事なその、例えば、家なら家が出来た、普請が出来たと、ね。そういう様な、私はあの、考え方の中から、慢心が出てくると思うですね。まぁだまぁだ、神様が下さろうとしておるおかげは、こんなもんじゃないと。まぁだまぁだ、実を言うたら、限りがないのだと。その、限りのないおかげをです、ね。限りのないおかげを頂いていくためには、こげな事であってはならんと言う。いつも、そういう姿勢がね。有難い。いわば、慢心せんで済むことになるのじゃないでしょうか。いつも、しじゅう五節の気持ちでおるということ。いつも、今中という気持ちでおるということ。
昨日、東京の井上さんから、手紙が来とった。んー、昨日です。昨日、三笠宮のお宅に、店を挙げて、出張させていただいた。まぁ、お庭でだろうと思うて、先日、(?)に参りましたら、久保山さん、今度、新築が出来ました。お家の中でやってくださいと。もう、どんなに考えても勿体ない事であります。また、勿体ない事になってきましたとこう。しかも、三笠宮が、井上さんところとも、特別に、信用してくださったと言うのです。本当に、信用というものは、有難いものだと思いすね。なかなか、皆さんもご承知のように、気がきの人ですから、もう、それこそ、気分も良いし、仕事もうまいし、心の状態も、なかなか美しい人です。ね。どんなに雨が降っても風が吹いても、もう、絶対、これこれだけのお客さんは、来て頂くという事。しかも遠いところから、わざわざ、新宿の双葉、新宿の双葉と言うて、来て頂くという事。もう本当に、勿体ないことだと。もう、親先生有難うございます。親先生有難うございますと、便箋一杯書いてある。ね。
一番初めに、椛目にご縁を頂きました時、お父さんが、あの、ご修行中でございまして、それで、まぁ、お父さんに言われて、あのまぁ、椛目の先生は、まぁ有難い先生だと言う風に、色々聞いて、まぁ、参りましたことでございます。そして、親先生、是非一遍、お寿司をあの、握って差し上げたい。ね。と言うので、まぁ、一番初めに、お寿司を握る。もうそれこそ、銀座の双葉でも、ぴか一的な存在であった時代でした。もうすでにですね、その当時から。ですから、まぁ、本当に、見事なお寿司を作っておりましたが。私は、まぁこれは、実感でしたけれども、美味しくないと思った。これ井上さん、いっちょん、美味しくなかじゃなかねと、私が申しました。もうその、初めて来て、初めて親先生に、それこそ、まぁして上げよるとじゃん。させて頂くというのじゃなくて、もう、親先生に食べさせて上げよるとじゃん。ね。そういう気分がです。やはり、お寿司の中に、ちらちらと出てきたとこう思うんです。今でも、その事を申しますが。もう、あん時にはもう、血の気の引くように、まぁ、言うならば腹が立った。ね。そして、その時、帰るときに、井上さん、あんた、慢心という事を、何時も、頭臭いとかにゃいかんぞと。大成させて頂くおかげ頂かんならんなら、もう、何時も慢心、お礼どもは無いと言ったようなものではなくて、あんたにはもう、慢心、これが、まぁ、言うて持たせるならば、慢心ども、起こしちゃ駄目だという事だけだ。ですからもう、何時もその事が、自分の頭のなかに、慢心どもしちゃならん、慢心どもしてはならんとこう思うておるとこう言う。店も、段々、勿体ないほどの繁盛のおかげを頂いて、お店の方達も、多すぎるくらいに、他所では手が無い、手が足らんと言うけれども、勿体ないように、手が揃い過ぎるくらいに揃わせて頂いて、何から何にまで、まぁ、おかげを頂いておるとこう言う。いつもその、井上さんの心の中にあるのは、ほんなら、どんなにおかげを受けても、慢心してはならないと言うこと。けれども、僕にはそれが分からない。ね。
「私のような、雑なものは、隙だらけで、金光様の目から、何と思われている事だろうと、考え考え、悪い事と思えば、すぐに直すよう心掛けております」と書いてある、ね。もう、人に、例えば、注意をされるとか。自分で、悪いと気が付いたことは、ね。そこんところを、一生懸命に取り組んで、心掛けておりますとこう。ね。私は、ね。何時もこの、改まりの姿勢というか。事が大事だと思います。ね。
世に、三宝様踏むなと。三宝様を踏むと、目がつぶれると言う。私共も、そこの所は、子供の時から、それを言われてきた。ご飯粒やら踏みつけると、目がつぶれるとか。足が額口に付くぞとかと言うふうに、言われてまいりました。ですから、本当にあの、畳の上に落ちとるとでも、やっぱ、こうやって、いちいち拾うてから、押し頂いていただく習慣を付けられた。今時はもう、そげなこつはしませんよね。不衛生的だと言うことで、やっぱ、もう捨てますけれども。ね。ですから、これは、例えば、ご飯粒とか、穀物だけのことではない。私共は、生きていく上に、一番大切なもの、ね、でなからなければ、命さえ保って行くことの出来ないほどしのもの。言うなら、何時も信心の心というものをです。絶えず、前向きの姿勢で、しかもそれが、粗末にすることのない、いわゆる、自分の心を育ててくださるもの、ね。それを、私共が、お粗末にしないと言うこと。それを、私は、ね、例えば、何時も改まるという事。自分では気が付かない、それを気が付いたら、すぐにそれを改めていこうとする行き方。絶えず、自分の心を、いわゆる、信心が成長していくことのために、一番邪魔になるもの。それは、私は、慢心だと思うのですけれども、ね。いわゆる、三宝様を踏むなと。自分の心を育てて下さろうとするもの。それを、粗末にしてはならないと言うこと。
そこで、ほんなら、自分の心を育てて下さろうとするものがです、何かと。ただ、有難い教えを頂いておけば良いと言うものではなくて。勿論、教えも頂くけれども、ね。私の心を、より、磨かせて、下さろうとする働き、ね。私の心を、いよいよ、豊かに大きくして下さろうとする働き。そういう働きを踏みつけるような事をしてはならんという事になります。それが、信心の心を育ててくださる一番大切なもの。それを、ここでは、御事柄とか、成り行きを大事にすると言うことになるわけですね、結局は。ですから、それを、例えば、粗末にすると言うことは、三宝様を踏むと言うことと、同じ事になるわけです。ね。命を育ててくださるとが、穀物であるように、私共の、信心の心を育てて下さるものがです、ね。言うならば、様々な事柄、御事柄であり、御物であり、ね。それを、ほんなら、私共は、こげな苦いものは嫌だとかいう様な事になるならばです。それは、穀物を踏みつけて折るような事になるのです。どんなに、例えば、それがいやな問題であっても、それを頂く。ね。そこでです、それを頂かせていただく、その姿勢がね、何時も、今中でおらなければ出来ないと言うのであります。ね。どんなにおかげを頂いても、どんなに先生と言われても、どんなに身代が出来ても、今中という気持ちです。ですから、まぁだ、おかげを頂いて行かなければなりません、ね。ですから、その例えば、心を育てて下さろうとする、その働きを大事にしなければ、相すまんという事になるのです。
三宝様を踏むなという事と、一番最後に、慢心が出ると、おかげを取り外すぞというところに、今日は、焦点を置いて聞いていただきました。ね。三宝様という事は、穀物の意、ね。と同時に、私共が、三宝様、いわゆる、三宝様とは、三つの宝と書いてある。ね。三つの宝という事は、私は、今日は、私共の心を育てて下さる。私共の、信心心を育てて下さる。ね。その信心心を、いよいよ、限りなく、美しく。限りなく、豊かに大きくして下さろうとする働きが、私共の上に起きてくる、様々な問題、事柄でありますから。その問題を、事柄をです、ね。しっかり、御事柄として頂いていく生き方。ね。
昨日、特別奉修委員の方達に聞いて頂いたお話ですけれども。御神願に、私は、沢山なこの、菊の花を頂いた。ちょうど、カーキ、カーキ色の菊の花ちゃ無いですけれども。そんな感じの菊の花である。けれども、手入れをせずに、言うなら、育った、野生的な、こう曲がっている。一杯こうしますね。あの、ようあの、畑の隅なんかに植えてある、あのこう、ね。無造作に裂いた菊の花。そういうものを、沢山、ちょうどそれを、新聞で、こう包んであるところを頂いた。それとその、新聞という事は、あの、まぁ、新しいと言うこと。また、新聞というものは、もう、その日その日の記事を満載してあるのでございますから、あの、もう、昨日のととか一昨日のとかいうたらもう、値打ちは無いのです。信心もそうです。信心も、やはり、日に日にさらと仰る。ですから更なる心。そういう信心。ですから、皆さん、そういう信心を頂いておるけれども、何とはなしに、その、菊の花というのは、まぁ、合楽の信心とこう頂くのでしょうが。けれども、こう曲がったような、言うなら、お生花にでも出来んといった様なお花である。それを、まぁ何とか、見られる様に、まぁ、投げ入れに使うたり、盛り花に使うたりして、それぞれに工夫して、それが使われておる。ね。皆さんの信心というものがです。こらまぁ、本当にもう、私のような者、私のような、レベルの深い者、私のようなお粗末な人間。私のように、言うならば、一癖も二癖もあるような私。もう、合楽だからこそ、これを使うて頂いておるのである。合楽だからこそ、生かしておって下さるのである。とても、他所でならば、もう、いつの間にか、信心を止めておったかも知れん。ね。けれども、合楽なればこそ、私共を、こんな、言うなら、菊の花を目指すとか、さらな信心を目指しておるという、ね。そこだけが取り柄で、まぁ、いうなら、親先生が、それを自由自在に使うておって下さる。言うならば、親先生なればこそ、私の様な者が、合楽に続いておるのだと、いう様な御理解を頂きながら、私も、それを、実際にそう思いました。ね。誰々の事ではありません。お互いの、銘々がです、ね。合楽だからこそ、ここまで、信心も進めさせて頂くことが出来た。ここまで、おかげも頂くようにもなった。ね。合楽だからこそ、私の様な者を生かしてくださった。他所じゃったら、いわば、相手にもされないほどしの、いうなら私。こらまぁ、自分自身の自覚なんですからね。私の様な者が、本当に、他所でなら、相手にもされない様な者を、誰々さん、○○さんと言うては、ちゃっと、それぞれの信心に、引き立てて下さるという事は、これは、合楽なればこそだと、こういう訳ですね。ここに井上さんが言っておる、私のような雑な男と、こう言っておる。しかも、慢心が強い私と。それを、一番初めに、ぎゃふんと、こう、慢心という事について、頂かせていただいて、それが、恐らく、一生の掛け守りとして行くことでありましょうがです。それで、何時も、精進しておることは、ね。自分で悪いと気が付いたことは、すぐに改めようと言う姿勢であると言うこと。
そこで、昨日の朝の御理解から言うとです、ね。今までは、曲がったなりでも良かったけれども、ね。まぁ、言うならば、昨日の御理解を境にです。合楽に神様のかけられる願いというものは、もう、いわば、真っ直ぐい、いうならね、ま、合楽の信心、二十何年間ですね。随分、ひどいことを言われたり、まぁ、それこそ、棒にも端にも掛からんように、取り沙汰されたり。ありもしない事を、そういう風に、まぁ、いうなら、悪名高い合楽であった。それが、例えば、今度、私の、いうなら、まぁ、いうなら、ちょうどそうですね。生まれてから、五十八歳までの、私の信心の歩みといった様なものを、青年教師の方達にさせて頂いた。二日間にわたって。その話がそのまま、ご本になると言う。その中にはです、なるほど、合楽がおかげを頂くはずだ。いや、あの生き方のほうが、本当ではなかろうかと思わせえるような内容であるという事。本当に、いうなら、合楽は、世に問われる事になった。ね。
そこで、ほんなら、合楽の内容であるところの、信心もですけれども、その内容であるところの、皆さんの信心がです。今までのようになっていかん。大概、合楽に参りよるばってん、金光様の信心はしよるけれどもと言われる様であっては、せっかく、世に問われかかっておる、みんなに認めて貰えれるところまで来ておるのにです。私共が、慢心をしたり、または、曲がっておったり。それはね、神様が、曲がっておっても、どうであっても、そんな事を、とやこう仰る神様じゃない。こうしちゃならん、あぁしちゃならんという様なことは決して無い。ただ、ならんのは、信心を止めてはならん。これだけだと言う風に、四五日前の御理解にも頂いたように、ね。けれどもです、けれども、私共が、そういう風な状態下に、現在の合楽があると言う事になるとです。それこそ、悪いと気が付いたところは、すぐにでも改めさせて頂いて、なるほどと、みんなが、神様からも、勿論ですけれども、人からも、合点の行かれるような私共にならなければならないと言うお話でございましたね、昨日は。
そこで、私共がね、いうならば、人間、身代が出来たり、先生と言われるようになると頭を下げることを忘れると言う。いつも心の姿勢というものがです、ね。もう、こげなおかげを受けたと言うのじゃなく、何時も、しじゅう五節の気持ちでおれ。始終、何時も、五節というのは、今が、まぁだ半分ということ。いわゆる、教祖様のお言葉から頂くと、何時もが、今中であると言うこと。ね。その、何時も今中であると言う所に、ね。後、半分、まぁだ、おかげを受けなきゃならんと言うのですから、何時も、姿勢を正さないわけには参りません。いや、慢心の、出ようのないほどしのおかげを頂かなければならん。
昨日、久留米の佐田さんが、もう本当に、もう、毎日毎日が、もう有難うして有難うしてと、また、有難う思わにゃおられない様な、お店に、生活に、おかげお繰り合わせを頂いて、もう婆ちゃんは、どうした神様の働きとは素晴らしいことですか。一分一厘間違いの無い働きの中に、佐田の家がある、お店があると言う事をです。もう、そこに、見、聞きする日々であって、もう、昨日は、泣きましたと言うお届けがあった、そのことを思うたら。そこで、ほんなら、このようなおかげを頂いてという時にです。何時か、御教えの中に、あー、御理解に頂きました、またの御理解にあります、ね。おかげを受けるという事、ね。世の中が進むという事。ま、値切ると言うことに通じると言う意味の教祖様の御教えを頂いた。こらなるほど、そうですよね。文化が進むとか、人間が進歩するとか、ね。もう、本当に、最高の、言うならば、文明の、文明社会の中に、私共は生きておるという事なのですから。けれども、最近言われる、公害の事なんかを思うとです。なるほど、文明国家とか、文明人とかと、文化人とかと、こう言うておるけれどもです。それは、確かに、めげて行きよること。もう、おかげが、完璧ということになるという事は、もう、いうならば、もう、めげて行きよることだと。もう本当に、勿体ないように、信心も出来んのに、このようなおかげを頂いてと言う、いうならば、整い過ぎるほどしのおかげを頂いておるということは、これは、めげよることになるかも知れない。そこに、気付かせていただいて、これは、今まで、疎かにしておった。今まで、現在は、もう和賀心に、全てを絞って、信心修行であったけれども。表行のことなども出来ませんから、ね。一つ本気で、表行をさせて頂こう。例えて、まぁ、一例を言うと、もう、自分から、そのテレビでも、自分が言うて、見ようといったようなことは、今日限りに止めようと思うたと言うお届けがございました。そりゃ、テレビが、ちらちら映っとる。けれども、いや、これは修行だと、言うならばです。そういう姿勢が、おかげを落とさんですむ姿勢だと思いますね。それも、もう一つ、今日頂きますように、ね。なるほど、この様なおかげを頂いとるけれども、まぁだまぁだ、どれほど神様が、おかげを下さろうとしておるか分からない、そのおかげに、いうならば、挑戦していこうとする訳です。挑戦というと可笑しいですけれども、それに目指していくことでございます。ね。もっともっと、大きくならなきゃならん、豊かにならなきゃならない。そういう、おかげを頂くためにです。昨日から、そういう修行も頂かせていただきますと言うお届けがあったんです。ね。
だから、本当に、おかげを落とさんですむ。おかげを頂いて、有難い有難いと言いよることは、いうならば、めげて行きよることになるかも知れん。ね。いうなら、おかげらしいおかげでもない時には、一生懸命、信心の貯金が出来ておるような感じ。ね。それが、どんどん、ほんなら、おかげの現れてくる時には、その時には、どんどん、引き出しよる時だから、いうなら、なるほど、めげよる時になるかも知れんのです。そこは、分からんけれども、おかげ落としてはならない。いや、また、この上にも、いやが上にも、おかげを受けなければならない。ね。ために、めげておるかも分からんから、そこをカバーする事のために、修行を思い立つと、こう言うのです。こういう生き方は、私は、あの、めぐりを積まんというか、慢心が出るとおかげを落とすと仰るが、おかげを落とさんで済む、一つの生き方だと思いますね。それに、只今、今日頂きます、四十五節という気持ち。いつもまだ、真ん中、今中だと言う気持ちでおらせて頂いたら、ね。いわゆる、三宝様を踏むような、お粗末なことにならない、おかげも頂けると思うのです。神様は、何時も、いうなら、願い以上のおかげを下さると言うか。信心も出来んのに、おかげを下さるという事になります。
昨日、秋永先生が、自動車を買われなさるわけです。それで、その高柴さんところの、守秋君が、まぁ、セールスをやってますから、あちらが進めに来たから、買うと言うことだった。それで、色々種類が沢山ありますから、どれが良かろうかと言うて、あの、写真を持って見えましたから、私は、これが良いと言うて○を付けた。ところがもう、それが今、もう、日本でも、一番最高な車だそうですね。いわゆる、大きな、立派な、いうならば、あの、もし、秋永先生が、それに乗られる事になるならば、いうなら、合楽で、一番立派な車ということになるのでしょう。値段も、大変高い。それで、これは、どげん考えがえたっちゃ、良過ぎますと、こういう訳です。その時、親先生が参り合わせておりましたもんで、あちらがまた、カー気違いですから、もう、絶対親先生、それになさい。もう、一番これがいいと言うて、だから、あがしこ進める人がある事だから、やっぱ、こりゃ、おかげ頂いてよかろうと、私は思うと。自分が、信心が出来たから頂くのじゃない。ね。そこで、秋永先生、これが、私が使うのじゃない。ね。いうなら、神様が使うて下さる車という事になったら、また、自分が、それに乗れる資格があると言う。いうならば、ま、ふんぞり返って乗るような事も無かろうけれどもです。いつも、こういう立派な車に乗れる資格が無い私ですから、そこん所を、補うていく信心修行が出来たら、秋永先生、いいんじゃないでしょうかと言うて、言うた事ですけれどもね。立派なものを、例えば、頂くと言うと、もう、それが、自分の信心の徳のような思い方をする事が、おかげを落とす元になるのです。ね。ですから、これは勿論、神様が、言うならば、合楽の信徒会長としてじゃから、一番、まぁ、立派な車に乗っても良いようなものだと、ね。けれども、そこんところを、私共がです、とても、そういう資格の無い者が、そういう立派な車を使わせて頂くのであるから、何時も、そういう姿勢でおるという事。それこそ、かがんで乗らせてもらうという様な気持ちがある。そして、それに対するところの修行でもさせて、・・・。こらもう、今までんごたる信心は出来んごとなりますと言うてから、言っておられましたが。そうです。ね。そこんところを、言うならば、埋めていくところの信心修行がなされて、初めて、それが、だんだん、身に付いて来るおかげになってくると、こう思うのですね。これとても、やはり、慢心の起こらんで済む、一つの頂き方だと思うのです。まぁ、色々に、自分で苦労させて頂いて、ね。皆が、いうなら、それこそ、慢心が出るくらいなおかげを頂きたいわけですね。いうならば、自動車でも、こうまい自動車よりか、大きな自動車に乗りたいのです、これは。だから、その乗らせて頂く時に、そういうおかげを頂いた時にです。私共が、何時も、ね。そういう資格も無い私が、これを頂くんだと言う姿勢であるならばです、ね。慢心の出ようがない。おかげを取り外すことがない。
そのために、私共が、何時も、ね。私共の心を育てて下さる、肉体を育てて下さるのが穀物であるならばです。心を、信心の心を育てて下さるのは、いわば、御事柄である。ね。ですから、その、御事柄を、いよいよ、大切にさせて頂く信心。同時に、今申します、今中という心掛け。同時に、私が、頂く資格が無い私が、頂いておるという、その、いわゆる、佐田さんの生き方、ね。これは、おかげがめげて行きよるんだと。頂いたごたるけれども、実をいうたら、そのおかげは、空になって行きよるのだと。そこんところを、補うていかなければならんという様な、私は、心掛けで行くことによってです。慢心がでらんだけじゃなくて、限りない信心を進めていくことが出来ると思うですよね。どうぞ。